生い立ちについて
わざわざイチ主婦である私の自己紹介に興味を持って下さり、ありがとうございます。
私のどんな部分に興味を持って頂いたのかわかりませんが、これまで経験したことを書こうと思います。
人の3倍はこの性格が原因で悩みぬいた人生を送ってきた自信はありますので、同じような経験をされた方にはアドバイスできると思います。
多感な小学生~吃音が始まる~
真面目すぎる女の子
私は自然いっぱいの熊本の田舎町で育ちました。
とにかく親譲りの自他ともに認める真面目な女の子でした。

両親は有機農業をしており、まだ今のように当たり前に行われている時代ではなく、農薬を使わないでできるわけがないというように、周りからは変わり物の部類だったようです。私はそんな両親のこだわりの仕事をとても尊敬していました。
私は真面目な上に、かなり繊細な子供で怒られることがとっても苦手な子供でした。父も厳格な人で、ちょっとでも反抗すると叩かれたりしていました。
母も祖母からのストレスで私に当たっていたと先日話してくれました。なぜ、こんな敏感な性格になったのか原因を決めるつもりはないのですが、生まれながらに感受性が強かったのか、いつも両親の顔色を伺いながら暮らしていたような気がします。
今でいう敏感な気を使い過ぎるHSCだったのかもしれません。
吃音が始まる
小学校1年生になった頃、あるきっかけで吃音が始まります。吃音を持つ先輩が校内放送に出演し、どもったのです。
その時に初めて「どもる」ということを意識したように思います。
なぜか、それを観た時から私も緊張するとどもるようになってしまったのです。心配性で完璧主義な性格の私はそのちょっとした吃音を気にし始めます。
そしてドツボにハマって行くのです。
吃音に関しては記事を書いています↓
ナイチンゲールになりたい
そんな時、お年玉で買った偉人伝シリーズで読んだ「ナイチンゲール」に心から感動した私は看護師さんになると決めます。
小学校の弁論大会では「看護婦への道」と題してみんなの前で自分の思いを話した記憶があります。
吃音もあるので緊張もピークで、みんなの前で看護師になる言ったという責任感に自分をしばりつけてしまいました。
この小学生時代に、この吃音症を私が悩んでいることについて誰かが真剣に取り合ってくれていたらちょっとは違う人生だったかなと思います。
普段はベラベラよく話すのでそこまで悩んでいることに気付いて貰えなかったというのもあります。
だから自分の子供のこういった精神的な兆候は見逃さないようにしなければと思うのです。この”性格”に気付くことで心の持ち方を改善すれば少しは違ったように思います。
悩める乙女の中学生~胃潰瘍になる~
普段のお喋りには困らず、よく喋る方だったので、この吃音で悩んでいることは、とても仲の良い子だけが知っているという状況でした。
早口で滑舌も悪かったので話したことに対して「は?」と聞き直されることもあり、気にしていました。
国語の時間や、授業中など、人前で発表したりする時にどもってしまうことが多く、その度に心が深く傷ついて行きました。
”気にしない”でいることが出来るような性格だったら引きずることもないのでしょうが、心配性の完璧主義の私は、いつもドキドキして緊張しているのが当たり前というような精神状態でした。
中学2年生の冬でした。胃のムカつきを覚えました。
食べたものを全部吐いて、吐き続ける日が続き、やっと病院へ。バリウムを飲んで、胃潰瘍ということが分かりました。
1ケ月も入院しなければならない程の胃潰瘍でした。
胃カメラも検査で3回程飲んで、初めての入院生活でした。クソ真面目な私は病院に勉強道具を持ち込み、毎日自習していました。
ただ、この入院も看護師になりたいという思いを強くさせる出来事になりました。
ガリ勉時代~受験は全て合格~
とにかく勉強は好きな子供でした。勉強しなさいと言われたことはありません。
予習は当たり前で復習が授業中というルーティーンは小学生の頃から出来上がっていました。
そんな努力が報われて志望の大学も先生には無理だと言われていましたが、推薦で合格しました。
ただ、母親は料理や裁縫が好きな私には、家政科や栄養士の進路がが合っているんじゃないかとずっと話してくれていました。しかし私は不安を感じながらも何故か進路を決めつけてしまい、変えることをしませんでした。

いつも見ている親の言うことに耳を傾けることも出来ないほど、
余裕がなかったですね。
大学を中退~精神的に病む~
高校の同じクラスメイト3人で同じ大学の看護学科に行くことになりました。

中学校で胃潰瘍で入院して看護師さんの仕事を見たことや、はとこの姉がこの大学を卒業し、大きな病院のオペ室で働き、とってもかっこよかったので、憧れていました。
不安を抱えながらも、看護師の資格を取ったら保健婦までなりたいと目標を高く揚げて勉強に励んでいました。
週末は初めてのアルバイトにも励み、それなりに楽しいキャンパスライフを送っていました。
しかし、実習など経験していく中でまた吃音が私を悩ませることになりました。
1週間の実習だけで、何もしていないのに緊張で3キロも体重が落ちてしまいました。
そして、現場を見るにつれて、
「現場で声が詰まって出なくなったらどうしよう~」
この悩みが私の頭の中を占めて行きました。病院で働くことが怖くて怖くて仕方がなくなりました。今思えば、看護師の働く場所も大きな病院から小さな病院まで自分に合った場所で働けるのに、オペ室で働くという想像から抜け出せず、視野が狭い状態に陥っていました。
でも、自分で決めて進んだ大学を辞めたいと親にいうことが出来ませんでした。きっとダメだろうと決めつけていました。
我慢して我慢して大学に毎日通っていました。
また同じ時期に大きな失恋を経験しました。母はこれも病気になった原因の一つじゃないかと後で話してくれましたが、私も言われてそうかもしれないな、と思いました。
その内に、私の身体に異変が起き始めます。まず、眠れなくなり、過食が始まりました。身体がきつくて、笑顔が出なくなりました。
大学に行き、授業に出るだけで精一杯になり、勉強の中で”うつ病”を学ぶ中、私の症状にそっくりで、ひょっとしたら私は病気かもしれないと思い始めました。
ある時、限界が来ます。
朝、母に泣きながら言います。
「大学に行きたくない」
その時はすでに私の神経は壊れていました。
大学を1年休学することになりました。
手芸に人生を救われる~引きこもりからの脱却~
精神を病むのは脳神経の故障が原因
人は悩みすぎると神経を壊してしまいます。心の病気だとか世間では言いますが、糖尿病などと同じで、脳の神経が故障して出るホルモンが出なくなったり、出過ぎたりしてそういう病気になってしまうんですね。
これは生まれ持った性格もあるのでしょうが、人より敏感な神経だとすり減って行くのも早いのかもしれせん。
中学生で胃潰瘍になってしまう人なんてそういないと主治医にも言われましたが、敏感過ぎることが引き起こした結果です。
大学を休学している間、過食が治らず、体重は80キロに達していました。成人式にも出ることも出来ずに、同級生の写真を複雑な気持ちで眺めたのを覚えています。
身体がきつく、朝も起きれず、お風呂に入ることもきつかったです。電話が鳴るととても怖く、人が来ると部屋に隠れてしまうような感じでした。
自分の姿を見られるのがとても怖かったです。
もともと行動的な私はそういう自分が生きる屍になったかのようで、苦しくて苦しくてたまりませんでした。
今のようにまだネットで調べることも出来ず、本屋で色々探して読んで自分自身を変えていくしかないと気づきました。
その後、症状が和らいできて、動くことが出来るようになりました。家の周りを歩くことから始め、水泳に行ったりと、必死の思いで元の自分に戻ろうとしました。
ただ、病気が治ったと思っていたら今度は元気になりすぎるという波があったのです。その後、数年入退院を繰り返しながら、自己コントロールできるようになり、波が小さくなっていきました。
話し言葉教室に通う
これまで私を苦しめた「吃音」から脱却するにはこれを克服するしかない、と新聞で見つけた話し言葉教室にも通いました。
元々早口の家系の為、滑舌も悪く、ハッキリ喋ることが出来ませんでした。この教室で、大きく口を開けて、ゆっくりと話す練習をしたお陰で滑舌の悪さは克服できたのです。これには久しぶりに会った友人からゆっくり話すようになったねとびっくりされたほどです。

家庭で小さな頃から音読をしっかりさせるということがとても大事だということを身を持って知りました。
大好きな手芸で自分を取り戻した
身体や気持ちが回復してきた時に家で出来ることと言えば、大好きな手芸でした。とにかく時間は有り余るほどあるのです。
今のようにパソコンやスマホがある時代ではなかったので、一日中テレビがお友達でした。元々テレビっ子だったので、テレビを観ながら、パッチワークを始めたり、編み物、洋裁をしたりと手芸に時間を費やしました。
そんな手芸好きだった私だったので、一度は和裁の職業訓練所に進んだのですが、まだ完全に体調が戻っておらず、数ヵ月で辞めることになりました。
大学を辞めてしまい、目標を失って次に何の仕事をしようかと焦ってしまいました。
洋裁の専門学校に通いながらアルバイトで社会復帰
仕事ではなく専門学校に行き直そうと、洋裁の専門学校に行きました。
この学校に行くことが私の社会復帰になりました。
この学校に行き始めた頃、熊本に大きな手芸店がオープンすることになりました。まだ働くことに自信がなかった私でしたが、
妹が「姉ちゃん、もう働いても大丈夫だよ」と声を掛けてくれて専門学校に通いながらアルバイトすることになりました。
洋裁を学びながら、手芸店で働き、学費も稼げて材料などの勉強にもなるしで一石二鳥でした。
手芸好きなお客様との接客を通して、数年引きこもっていたことからの対人面の不安もなくなりました。こうやって私は少しずつ自信を取り戻して行きました。
携帯ショップに就職、遅い青春時代
パソコン教室に通う
専門学校を卒業後は、手芸店でフルタイムで働いていました。そんな中で携帯で応募した企画でパソコンが当たったのです!
使い方も知らなかったのと、これからはパソコンが使えないとダメだという思いで、仕事をしながらパソコン教室へ通いました。
この選択はその後とても生かされることになりました。
そんな時、手芸店がテナントで入っていた寿屋という九州では大きな店が倒産することになり、影響を受けました。私は専門学校で学んだ着付けなどがあったので、得意分野を生かして、しばらくアルバイトで繋ぎます。
携帯ショップの仲間が素晴らしかった
そんな時に某携帯ショップの店員の募集があり、パソコンの基礎は学んでいたので応募してみると採用が決まりました。通勤は車が便利です。
車の運転も病気になる前に免許を取り、ペーパードライバーだったのです。その為に、父にお願いして畑の周りの道を運転して練習します(笑)
この職場に行くためにペーパードライバーも脱出。車はなんと廃車することになっていた車を譲って貰っての通勤でした。
携帯ショップは覚える仕事も多いし、クレームも多い。お客様対応はとても難しい仕事でしたが、研修などもあり、とても勉強になった仕事でした。
この仕事は6年続けました。ベテランスタッフの位置になって、故障担当のチーフなども経験して、充実していました。

こうして、月に1回の通院は続けながら、仕事もこなして主治医にはもう通院しなくていいと太鼓判を押されて、10年間の治療が終わりました。
ビジネスホテル&デイサービスのお仕事
携帯ショップを最初の結婚で退職し、他県でビジネスホテルとデイサービスの仕事を経験することになります。
このビジネスホテルは管理人として住み込みで行っていました。
朝5:30から朝食を30人前準備したり、部屋の掃除をしたり、お客様対応をしたりとおかみさんとして切り盛りしていました。
昼間はデイサービスの昼食の手伝いなどもしたりしてと、よく働いた3年でした。
充実した3年ではありましたが、色々あり、また熊本へ戻ってくることになりました。
米糠酵素風呂「温森(ぬくもり)の里」立ち上げ
熊本に帰ってきた私は叔父の米糠酵素風呂起業という話に賛同し、手伝うことになります。
元々医療系を目指していた私は病気になる原因や食べ物のことなど、また勉強する機会に恵まれます。
米糠が発酵する熱が60℃になることを利用したフワフワした砂風呂のようなイメージです。砂風呂は地熱を利用していますね。
夏場は37℃もあるビニールハウスで、働いていたら激ヤセしてしまいました。

現在は一緒に立ち上げ作業を行ったいとこ夫婦が経営しています。
元々、父が有機農業をしていたりと健康志向な家庭で育ち、歯医者以外は病院に行かない自然志向な父の元で育ちました。
「健康」ということに関しては「食」と「心」が大切だなと経験上感じています。
病気がまん延している現代は人に良い物であるはずの「食」が、人を蝕んでいる結果になっています。選択できる自由はあるので、出来るだけ身体に良い物を身体に入れる工夫をすることが大切です。
また健康とは「心」が元気であることも大切です。二つのことが揃って「健康」だと言えるでしょう。
心機一転、家族で大阪へ
働く為に保育所に娘を入れる
熊本で新しい出会いがあり、2012年に結婚することになりました。娘も授かり、主人の仕事の都合で、家族3人大阪に引っ越すことになり、今に至ります。
大阪でも娘を保育所へ入れることに苦戦したりと、色々乗り越えてきました。
大阪では働ける場所から働きたい場所という感じで、パートをいくつか経験してきました。
ブログが仕事になるということ
そんな中で、一日PCを触れる場所での仕事があったのですが、そこで「ブログで収益を上げる」ということを知ることが出来たのです。
このブログ構築に関してはこちらの記事を読んで下さいね。↓
そして現在~介護福祉士と親子ITインストラクター~
そして現在は2017年4月から訪問介護のお仕事に挑戦しています。
また2018年3月から親子ITインストラクター養成講座も受け、現在親子ITインストラクターとしてセミナーを行ったり、プログラミング教育に関して発信をしています。
2020年には介護福祉士の国家資格も取得してだいぶ仕事にも慣れてきました。
近所のコミュニティスペースで行われている介護体操教室に高齢者の方々と一緒に参加しています。
2021年からは高齢者対象のスマホ教室をしたり、プログラミング塾で小さなお子様向けのコースを担当したりとまた活動が広がっていきそうです。
2020年のコロナ禍で益々、オンラインを活用することの重要性が高まってきました。災害対策としてもスマホをみんなが使えるようにすることが安否確認などにも大変役立ちます。
オンライン診療がいずれ当たり前になります。引きこもりやすくなる人と繋がることで様々な不活性の予防になると感じています。
これからはコミュニティを作っていくことが大切。自分の身体は自分で何とかする!という気持ちで人生100年時代を生きていく必要がありますね。
でもね、大変だと思わずに、人生1度きり、楽しみながら行きましょう。
念ずれば花開く、思い続けることが大切ですね。
まとめ
最後まで、私の自己紹介を読んで頂きありがとうございました!
・吃音に関すること
・精神的な病気を克服したこと
・手芸や洋裁に関すること
・Wordpressでブログを書くこと
・スキマでお小遣い稼ぎするワザ
・介護関係のこと
・子育ての悩み
・アトピー肌の改善方法(体験談)
こういったことに関しては、得意だったり経験していますので、アドバイスできることがあると思います。
読んで下さる方の為に、色々な情報を掲載していきたいと思います。今後もよろしくお願い致します。
